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 寒い日が続いている。連日のように大雪のニュースが流されて、春はまだ遠く、冬将軍がデンと居坐っている。地球温暖化で、夏場の猛暑が定番になっているが、暖冬になっているというイメージは乏しく、中国山地の山間で暮らしているせいか、冬の寒さはいつも辛く感じられる。
 山里の雪景色は墨絵のように幻想的で風物詩だが、その土地で暮らしている者にとっては、雪は嫌われものである。雪は清浄できれいなもの、というイメージがあるが、とんでもないデタラメだ。車を運転しているとよくわかる。雪が車に降り積もって、それが融けて乾いたときは、埃だらけになっている。雪は、空気中の埃が核になって、水滴が結晶したものだ。だから、水分が蒸発してしまうと、汚れた埃だけが残される。子供の頃、降り積もった新雪をよく食べていたが、埃だらけの車を見ると、よくおなかを壊さなかったものだと思う。昔の埃は安全で、化学物質を含んでいなかった? 
 わたしは1月の終わり頃が誕生日なので、いちばん寒い時期に生まれたことになる。 だから、寒さには強いはず、と勝手に思い込んでいたのだが、年々寒さが苦手になっている。東京で暮らしていた頃には、冬場でも足が火照って布団の外に出して寝ていたこともあるぐらいなのだが、今では電気敷き毛布で背中を暖めなければ寒くて寝付けない。それだけ、山里の寒さが厳しいということなのだろうが、年齢も影響しているのだと思う。寄る年波なのか、体を暖めるエネルギーが不足している。体の内燃機関が老朽化してきているということか。慣れとは怖ろしいもので、旅先でも背中の寒さを覚えると寝付けないようになってしまった。
 父親が先日、88歳の誕生日を迎えた。本当は1月5日の生まれなのだが、昔は生年月日に対するこだわりが乏しく、都合の良い日に適当に書いて出生届を出したので、2月10日が誕生日ということになってしまったらしい。だからということでもないだろうが、本人にも誕生日という自覚、いや意識はないようで、その祝いをしたという記憶がない。
 もっとも、幼い子供の頃を除いて、我が家には誕生日を祝うという習慣がもともとないので、わたしは自分の生年月日以外は、家族の誕生日を知らなかった、というか、意識したことはなかった。帰省して、両親の介護をするようになってから、いろんな書類に家族の生年月日を記入する機会が増えたので、ようやく頭の片隅に数字が残っている程度。その記憶も曖昧で、父親の入院先の病院で働いている友人に、「明日はお父さんの誕生日ですよね」と言われて思い出す始末。そのときも、「あっ、そういえば……、いや、6日じゃなかったですか?」とボケまくりで、家族に対する無関心さを露呈してしまった。
 誕生日のお祝いに、病院のスタッフと一緒に写真を撮ってもらったのだが、父親がちゃんとカメラ目線で、しっかりした表情で写 っているのには驚いた。葬式の写真に使えるな、などと、つい罰当たりなことを考えてしまった。そんなことを自然に考えるほどに、父親の死は身近なものになってしまっている。
 88歳は米寿で、去年の敬老の日のことを思い出した。毎年、市の主催するイベントがあって、公会堂でさまざまな演目が上演されている。両親ともに、そうしたにぎやかな場所に出向くのは苦手なので、紅白饅頭やお酒、スーパーの金券などの引出物をわたしが代理で頂戴してくるのだが、今回はオマケがあった。父親の米寿のお祝いで、金券と賞状をいただいた。満年齢は87歳だったが、数え歳で計算しているらしい。
 自宅に帰って、賞状の入った筒を父親に見せた。中身を取りだして、神妙な顔で眺めていた……、ように見えた。その翌日のことだ。賞状と筒が、くしゃくしゃになってゴミ箱に捨てられていた。饅頭やお菓子と違って、賞状は食べられない。認知症の影響もあるのだろうが、らしいと思って笑ってしまった。元気なときでも、そうしたような気がする。実利が最優先。わたしが以前に四国を旅したときに、四万十の川海苔の瓶詰めをお土産に買って帰ったことがあるのだが、「なんぼで買うた?」と訊くので値段を言うと、「同じようなもんを、ビッグ(郊外にあるスーパー)では半値で売っていたぞ」と、惜しそうな顔で言う人だった。
 父親が脳梗塞で倒れたのが昼食の直後で、そのときに吐き出した胃の内容物が肺に逆流して、肺炎を併発した。今でもよく熱が出るのは、その後遺症だろう。抗生剤を点滴しても、なかなか熱が下がらない。その上、点滴の針を自分で引き抜いてしまうので、病院のスタッフを困らせているらしい。
 性根がせわしなくできているので、落ち着きがなく、ベッドの柵を自分で引き抜いかないように、柵がサラシで固定されている。さらに、転落したときの用心のために、ベッドの脇の床にはマットレスが敷かれている。他の病床では見られない光景なので、自分の父親がとりわけ面 倒をかけているのがよくわかる。申し訳ないと思うのだが、こうして病院にすべてを委ねることができて、物理的にも、精神的にも、わたしはずいぶんと楽になった。正直、重い荷物が半分に減った。父親にとっては不本意だろうが、これもひとつの“決着”なのだと思っている。
 わたしの両親に限らず、病人や高齢者にとっては、厳しい冬はやはり鬼門である。訃報も多い。 父親が、地元の介護病院に転院できたのも、患者さんが亡くなって空きができたからである。先月にも、町中で薬局を開いている、父親の薬剤師仲間の方が亡くなった。わたしとは面 識はなかったが、父親の代理のつもりで葬儀に参列した。癌の手術を受けられていて、父親よりも一回り以上、若い方だった……、いや、米寿を迎えた父親の方が、長命なのだ(苦笑)。
 わたしがパートで勤務している調剤薬局の近辺では、短期間に5人の方が亡くなっている。田舎にはまだ互助制度が残っていて、葬式は地区の住民みんなで手伝うという習慣がある。薬局の患者さんが、「葬式の手伝いだけでくたびれて、自分が倒れそう」と悲鳴を上げていた。
 薬局の近所に、百歳を越えるお婆さんがいて、独り暮らしなので自宅まで薬を届けに行く。最初は、部屋に上がっても姿が見えず、留守だと思って帰ったら、薬局のスタッフに外出はできないはずだと言われて出直して、炬燵で猫のように丸まって寝ているお婆さんをようやく発見した。話してみると意気軒昂で、とくに昔の記憶は驚くほど鮮明だ。お婆さんの実家がわたしの父親の生家のそばで、よく遊びに行っていたらしい。父親の双子の弟、つまりわたしの叔父さんたちのことなのだが、その子供時代の話はとりわけ新鮮だった。
 そのお婆さんと、近所で亡くなった人たちの話題になった。ひとりは、お婆さんの隣家の方だった。お婆さんにとっては、みんな若くて、死は唐突である。米寿を迎えた父親も、まだ“年若い人”だ。つい、天寿とはなんだろうと思ってしまう。あの東日本大震災からもうすぐ1年、天の声はときに気まぐれで残酷だ。自分の天寿は……、知りたいような、知りたくないような。長く生きたいと思う反面 、あまり長くても困ると思う自分がいるのである。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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