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 独り旅を好むようになったのは、40代に入ってからだろうか。今は、大まかな目的地を決めるだけで、宿の予約もしないで独りで出かけている。それ以前は、旅行というと温泉好きの仲間が4人集まって、持ち回り役の幹事が練った旅程に沿って行動していた。
 4人という人数は、旅行にはとても具合がいい。電車や列車ではボックス席を占拠できるので、早朝から酒盛りを始めても周囲の視線を気にしなくてもいい。地方の交通 の便の悪い所に行っても、比較的安易にタクシーを利用することができる。4人だといささか窮屈だが、長時間のタクシー料金も、四分割すると大したことはない。宿屋も、4人だと歓迎してくれる。一部屋で4人分の稼ぎがあるのだから、効率がいい。秋の観光シーズン、人気の秋田の乳頭温泉郷に電話を入れたら、「何人ですか?」と尋ねられて、「4人です」と答えたら予約が取れた。
 その温泉仲間も、一人が九州の実家に引き上げてからは、集まることが少なくなった。4人での行動に馴れているので、3人だとなんだか違和感がある。元会社の同僚で、先輩後輩がそれぞれ2人づつという構成も、すこぶる居心地が良かった。わたしが広島の山間にある実家に帰省してからは、「TAFF」というメンバーの頭文字を取った温泉愛好会も解散状態である。年齢のこともあるだろう。その数を競うように、温泉のはしごを繰り返して、ただひたすらにお湯に入り続けるというタフな旅行をする年齢ではなくなった。
 若い頃から、独り旅に対する憧れはあったが、実際に出かけるとなるとネックは宿屋である。4人グループとは逆に、いちばん歓迎されないのが独り客だろう。部屋の準備などの手間はさほど変わらないのに、実入りは少ない。独りでは盛り上がりようがないので、酒代も知れている。昔は、「お一人様お断り」の看板を掲げる宿屋も多かった。普通 の温泉宿は敷居が高くて、どうしてもビジネスホテルのような味気ない所を選んでしまう。あるいは、夜行列車や夜行バスを組み込んで、宿泊を少なくするか。
 都合の良いものを見つけた。24時間営業の健康ランドやサウナである。とくに健康ランドは、都会ではなくても、地方の郊外にもけっこう建てられている。温泉ブームと町おこしで、強引に温泉を掘ってレジャー施設を設えたという感がなきにしもあらずだが、わたしのような気弱で低所得者の単独旅行者にはもってこいの“宿”だ。いろんなお風呂を楽しんで、レストランで好きなものを食べて、 シネマルームで映画を観て、眠くなったら仮眠室でゴロリと横になる。今では、オールナイトの健康ランドのある場所を拠点とした旅程を組むこともあり、である。
 さて、独りの気ままな旅に馴れてしまうと、これがまたとても心地が良い。もともと、孤独には強い性(たち) だったのだ、と思う。子供の頃、「地球最後の男オメガマン」という映画をテレビで見て、細菌戦争で人類が壊滅状態になったあとに生き残った主人公、チャールトン・ヘストンに憧れた。細菌で肉体が蝕まれてミュータントとなった新人類たちとの抗争はノー・サンキューだが、廃墟の中を自分独りで闊歩するのは悪くないと思った。自分だけの王国なのだ。
 独りがいいのなら、山歩きでもすればいいではないかと言われそうだが、山里で育ったせいか、自然の中で独りになるのは、あまり魅力を感じない。無精ということもあるだろう。食料や炊事道具の入った重い荷物を背負って歩く元気はない。腹が空いたら、ぶらりとどこかの食堂にでも入って手軽に済ませたい。テントを張るよりも、どこかの安宿にもぐりこんで、すぐにゴロリと横になりたい。ロビンソン・クルーソーの物語は大好きだが、ああいう冒険がしたいとは思わない。
 いろんなところに出かけていると、自分の嗜好がわかってくる。人出の多い大きいな都市の繁華街は、苦手である。楽しむよりも、人酔いして疲れてしまう。人気の観光地や、家族連れが多い行楽地も敬遠している。観光地でも人出の少ない季節や平日を狙って行くと、くつろいで散策できる。
 いちばん好きなのは、地方の小さな都市に出かけて行って、“迷子”になること。気の向くままに脇道にそれたり、路地裏に入って行ったりして、いつのまにか方向感覚を失って彷徨している。疲れたら、ノスタルジックな喫茶店に入って休んでもいいし、寺院の苔むした石段に腰掛けて、缶 コーヒーを飲んでもいい。相棒のデジカメの獲物があれば、なおさら嬉しい。
 旅先で何かが待っているのではないか、何かが起こるのではないか、という期待はもちろんある。デビット・リーンの映画で、「旅情」という作品があった。1955年の作品だから、わたしの生まれる前の古い映画だ。キャサリン・ヘップバーン演じるオールドミスが、ヴェニスに旅行に来るのだが、カップルや家族連れの多い街中では、一人で観光しても寂しい思いをするばかりだ。そんなとき、彼女の目の前にある魅力的な男性が現れて……。
 こんな僥倖の経験はないし、そんなことが自分に、いや、平凡な小市民に起こるはずもないことを自覚している。夢物語だからこそ、映画になっているのだろう。旅先で何かがあれば嬉しいが、正直、何もなくてもいいのである。ただ、日常生活を離れて、独りで汽車やバスに揺られている時間や、車を飛ばしている空間だけでも充分に楽しいのだ。このまま寅さんのように、旅空の下で気ままに暮らせたら……、とは誰でも思うことだが、非日常が日常になってしまえば、生活の煩わしさがまとわりついてくる。寅さんは、平凡な家庭に憧れていたっけ。
 わたしは今年、50歳を迎えた。老年に足を踏み入れたという寂しい自覚と共に、自分のような人間が半世紀も生きてこれたことに、素直な、いや、素朴な喜びを感じている。すでに鬼籍に入った同年代の友人や年下の友人も少なくない。はたして、これからどれだけ独り旅ができるだろうか。これから孤独が日常になってしまったら、独り旅に出る元気が、いや、意味を見いだすことができるだろうか。心身の老いは、残酷である。
 願わくば、肉体が衰えて実際に旅に出ることができなくても、仙境に到るがごとく、精神だけでもどこかの知らない世界を彷徨していたいものだと思う。誰しもいつかは、独り旅に出なくてはならない。死出の旅は、誰でも平等にやってくるのだから。


Copyright(c):Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋

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*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が文華別館に収録されています。


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