T-Timeファイル亜木冬彦&赤川仁洋 作品集表紙に戻る



「あっ、銀が歩で殺されよった。アホやなあ」
 額に手拭いを巻いた初老の男が、甲高い声を上げた。
「なに言うとんのや、あれでええんやないか。銀を囮(おとり)にして、飛車を5筋に……、あっ、アカン、角を動かしたら、桂馬の頭が丸坊主や。こいつ、ホンマのへぼやで」
 作業着姿の男が、自分のことのように悔しがる。しかし、ガラスの向こうの対局者には聞こえることはない。大阪は新世界のジャンジャン横町、「一歩クラブ」という将棋会所の前でのいつもの光景だった。こうして会所の外で観戦している分には、席料を払うこともないのだ。
 梅雨だった。体にまとわりついてくるような小糠雨(こぬかあめ)が、大阪の街を覆っている。しかし、アーケードの下のジャンジャン横町に、雨は無縁だった。
「こんちは」
 一歩クラブに足を踏み入れた若者が、受付の席主(店主)に声をかけた。
「やあ、榊(さかき)はんか」
 老人が破顔した。
「しばらく顔を見せなんだけど、旅でもしてはったん?」
 席主の問いかけに、若者は少年のようなはにかんだ笑みを浮かべて、曖昧に頷いた。
「じゃ、お願いします」
 五百円札を席主に手渡して、そそくさと会所の奥へと向かった。
 名前は榊秋介(しゅうすけ)、東京の生まれだが、自慢の将棋でひと稼ぎしてやろうと、賭け将棋が盛んな新世界にやって来た。大阪万博を翌年に控えた、昭和四十四年の春のことだった。それから、二年余りの歳月が流れている。
 机と椅子が並べられた土間の奥に、五畳ほどの細長い座敷が設えてある。その一角が、くすぼり軍団のたまり場だった。くすぼりとは、賭け将棋で食い扶持(ぶち)を稼いでいる者たちのことを言う。将棋会所や将棋道場で一日中くすぶっていることから、その呼び名がついたと言われている。
「あれ、多賀谷さんは?」
 秋介が、コールテンのチョッキを着た男に声をかけた。仲間内で床屋と呼ばれている。
「さあな。大将、一昨日(おとつい)から雲隠れしてるんや。どこぞで女としけこんどるのとちゃうか」
 床屋が笑いながら言った。
「そうか、残念だな。せっかく、タネ(賭け金)を用意してきたのに……。床屋さん、一番どうです? 三倍層でいいですよ」
 真剣(賭け将棋)を持ちかけた。三倍層とは、負けたら三倍の賭け金を払うというハンデである。床屋が秋介の顔を睨んだ。
「同業者が食い合いしても、しょうがないやろ」
 そっけなく言って、仲間の将棋に視線を戻した。
「山崎さんは、どうです?」
 髭面の男に声をかけた。山崎は無言でかぶりを振った。
「兄ちゃん、えろう人気ないなあ」
 対局している小柄な男が、すかさず茶々を入れた。仲間内ではケイちゃんと呼ばれている。
「そないにガツガツしとったら、嫌われるだけやで。将棋はたのしゅう指さんとな。なあ、だんさん」
 対局相手のでっぷり肥った五十男に声をかけた。林という不動産屋で、くすぼり軍団の上得意客だった。
「うん? なんか言うたか」
 将棋に熱中していた林が、怪訝な面持ちでケイちゃんに尋ねた。
「この兄ちゃんに意見しとったんですわ。将棋は強いだけではアカン。勝ち負けよりも、品性が大切なんやとね。その点、だんさんの将棋はお公家(くげ)はんのようにスマートや。そやから、みんなに好かれてますのや」
「ええかげんなこと言いよってから。あんたらが好きなのは、わしの金やろ?」
 林が笑いながら、盤上に飛車を打ち下ろした。
「ひゃー、お公家はんにしては、えろうきつい手を指しますなー」
 ケイちゃんが大げさに頭を抱えて見せた。
 秋介は苦笑を浮かべて、その場を離れた。ケイちゃんの言い分にも一理はあった。対戦相手を楽しませるのも、くすぼりの技なのだ。自分には無理だと思った。いや、そんな太鼓持ちのようなことまでしたくはなかった。
(仕方がない。多賀谷が来るまで、先生と遊んでもらうか)
 座敷の中央にある盤を前にして、七十年輩の老人が坐っている。くたびれた藍染めの羽織袴に身をつつんで、まるで置物のように正座を続けている。その老人の背後の壁に、「将棋指南、一局二百円」と毛筆書きされた半紙が貼り出してある。
 遠藤金伍七段、長らく将棋協会のプロ棋士として活躍していたが、一年ほど前に引退している。今は楽隠居の身で、こうした指導対局で煙草銭を稼いでいた。
「先生、一局お願いします」
 秋介が、盤の前に正座して頭を下げると、老棋士の顔に子供のような笑みが浮かんだ。遠藤は、すでに並べられている盤上の駒から、自陣の角を取り上げて、駒箱の中にしまった。角落ちが、遠藤と秋介のいつもの手合いだった。そして、秋介が勝てば、指導料の二百円は払わなくてもいいという約束だった。秋介はほとんど指導料を払ったことがなかった。
「榊さんは、何歳でしたかな」
 遠藤が話しかけてきた。
「今年の八月で、二十五になります」
「八月? 秋ではないのですか」
 不思議そうな顔で遠藤が尋ねた。
「秋に生まれるはずが、早産だったんですよ。秋介という名前は、親父がもう決めていたらしくて……」
「少しばかり、早見えしすぎたわけですな」
 遠藤が笑った。
「サトシ、これでパンでも買って、自分で昼飯さ食え。おとうはずっと、ここさいるからな。へば、日ぐらい(夕方)になったら、ちゃんと戻ってくるんだぞ」
 東北訛りのだみ声が、秋介の耳に入った。振り返ると、半ズボン姿の子供が目に入った。まだ小学校に上がる前の年頃だろうか。イガグリの坊主頭に、鼻の下が鼻水でテカテカ光っている。その子供の手のひらに、無精髭を生やした男が五十円玉を載せた。そして、節くれ立った大きな手で包み込むようにして握らせた。子供は大きく頷くと、小走りに会所の外へと飛び出して行った。
 一瞬、男の視線と秋介の視線が交錯した。年齢は三十代の半ばといったところか。ずんぐりした体に、薄汚れた灰色の背広を着込んでいる。腰掛けている椅子に、手提げの紙袋が立てかけてあった。岡山名物という文字が読みとれた。
「どうも」
 男は、人なつっこい笑みを浮かべて頭を下げると、自分の対戦相手に向かった。
「お兄さん、お楽しみで二百円ほど賭けませんか」
 男が提案した。学生のような若者は当惑したような顔をしたが、二百円ぐらいならばと承諾した。男は、くたびれたガマ口から百円硬貨を二枚、取り出すと、駒箱の蓋の中に落とした。チャリンという乾いた音が響いた。若者も、男にならって百円硬貨を二枚、蓋の中に入れた。
「子連れ狼ですな」
 遠藤がそう呟いて、ニヤリと笑った。
(ずいぶんとうらぶれた拝一刀だ)
 秋介は、自分の子供の頃のことを思い出していた。父親に連れられて、何度となく雀荘に通ったものだ。秋介は、母親の目をごまかすためのダシだった。雀荘の片隅で寂しそうにしていた秋介をかわいそうに思って、その雀荘のマスターが、秋介に将棋を教えてくれた……。
 秋介は、駒台から銀を取り上げると、激しい駒音を響かせて相手陣に打ち込んだ。飛金両取りの痛打である。老人の顔がたちまち厳しくなった。

 秋介と遠藤の将棋が終盤を迎えているときだった。三つ揃いの背広を着込んだ男が姿を現した。年齢は三十前後だろうか。受付で入場時刻を記(しる)した紙を受け取ると、部屋の中を見渡した。会所の料金は、一時間単位になっている。帰りにその紙を受付に渡して精算する。長く遊ぶつもりなら、一日分の席料、五百円を前払いする。
「多賀谷さんはおられますか」
 座敷の方まで来て、男が尋ねた。
「まだ、来てませんのや」
 床屋が答えた。
「大将になんぞ用でっか」 
「高名な真剣師のタガゲンと、一度、お手合わせを願いたいと思いましてね。大阪に来る用事があったので、新世界まで足を延ばしたんだが……」
 多賀谷元(はじめ)は、「潰し屋のタガゲン」という異名で、真剣師たちに畏敬されていた。
「そやったら、大将が来るまで、わてと一番どうでっか」
 すかさず床屋が誘った。優男風の外見に、カモネギだとふんだのだ。
「それはありがたい。帰る時間まで、退屈しなくてもすみそうだ。もちろん、真剣ですよね?」
 床屋がニヤリと笑って頷いた。
「じゃあ、一番、五千円でどうですか」
 床屋の顔が強ばった。大学卒の初任給が三万円台の半ばだった頃のことである。五千円という金額は、軽くはなかった。いや、それよりも、初対面の相手に平気で高額な賭け将棋を持ちかけてくる自信に、警戒心を抱いたのだ。
「失礼ですが、多賀谷さんとあなたの手合いは?」
 男が尋ねた。
「飛車落ち、ですが……」
「だったら、わたしもそれでいいです」
 なんとも、したたかな自信だった。俺はタガゲンと同じくらい強い、と宣言しているようなものである。床屋が不安そうな面持ちで、山崎の顔を見た。一瞬の間をおいて、山崎が小さく頷いた。
「わかりました。それでやりまひょか」
 床屋が答えた。腹が据わったのだ。多賀谷のような怪物が、そうそういるわけがない。それに、床屋の周りには、心強い仲間が控えている。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 男はペコリと頭を下げると、無造作に角道の歩を進めた。床屋はしばらく考えて、1筋の歩を突いた。初手から定跡を外している。相手の外見や雰囲気から、本格的な棋風だとふんだのだ。それで、端(はな)から攪乱戦法に出ることにした。
 いつの間にか、山崎が男の背後に立っている。これでいつでも、男に気付かれることなく、床屋に次の手を通すことができる。男の相手は、床屋だけではなかった。
 男は、床屋の変則手にも顔色一つ変えずに、1筋の歩を突き返した。床屋が9筋の歩を突く。男がまた歩を突き返す。床屋がノータイムで3筋の歩を突いた。開始早々、飛車の小びんを開ける奇手だった。相手が誘いに乗って5五角と出てくれば、すかさず自分の角道を通す。これで大駒交換は必至となる。序盤での大駒交換は、下手の望むところだ。
 しかし、男は挑発に乗ることもなく、がっちりと金を上がって角頭を強化した。床屋が次々と繰り出す変則手に惑わされることなく、着々と自陣の駒を組み上げていく。床屋にちょっかいを出す隙を与えないのだ。次第に床屋は、手詰まりになっていった。
 床屋が指し手に躊躇する場面が多くなった。駒に伸ばした手を何度も引っ込めて、うーんと唸ってまた腕組みをする。そして、首の運動をする振りをして、ちらりと山崎の方を盗み見る。山崎が顎髭を撫でれば、その手は駄目だ。何もしなければ、その手でオッケー。通しのサインなのである。山崎の方が、床屋よりも強いのだ。
 床屋が苦境に陥ると、山崎の通しはさらに露骨になった。両手の指を使って、次の手を指図した。右手の親指が1、人差し指が2、といった具合に、それぞれの指の数字が決められている。その指で、鼻の頭を撫でるのだ。
 しかし、山崎の加勢を得ても、戦況はいっこうに好転しない。いつしか床屋の指し手は、防戦一方になっていた。だが、したたかで執拗な受けだ。徹底的に受けに回り、相手のミスを待つ。勝ち将棋を勝つのは当たり前、負け将棋にこそ、くすぼりの真価が発揮される。生活がかかっているのだ。
 男が小考した。そして、涼やかな顔で小さく頷いた。軽やかな手付きで角を取り上げると、相手の守備駒をはがした。思わぬ強手に、床屋が大きく目を見開いた。だが、すぐにニヤリと笑みを浮かべて、その角を取り上げた。相手が痺れを切らして、強引な攻めに出たと思ったのだ。ここを凌げば、おのずと逆転の芽が出てくるはず……。
 そのあとの男の指し手はノータイムだった。鮮やかな駒さばきで、小気味良い駒音を響かせる。絶対の応手(おうしゅ)が続いて、床屋の顔が次第に強ばってきた。確実に、床屋の王将は追いつめられていく。そして、角切りの強襲から二十一手で、床屋の王将は即詰みに討ち取られた。
「あんた、名前は?」
 ケイちゃんが尋ねた。
「反町と言います」
 男が名乗った。その名前を聞いた途端、秋介は心の中で叫んだ。
(カミソリ鋭司だ!)
 秋介も、噂だけは耳にしていた。
 反町鋭司、かつてはプロ棋士の養成機関である奨励会に所属していたという。指運なく、プロへの道は断念したが、以後、アマチュアの大会に舞台を移して活躍している。東京都代表として、全国大会でも上位に進出している強豪だった。本業は証券会社の歩合外務員だが、裏稼業の真剣師としても名が売れている。その切れ味鋭い終盤に、「カミソリ」という異名がつけられていた。
「もう一番、どうです?」
 反町が床屋に尋ねた。床屋は悄然とかぶりを振った。体中のポケットをまさぐって、どうにか五枚の千円札をかき集めると、悔しそうに盤の上に放り投げた。

「さて、次はどなたがお相手してくださるのですかな」
 反町が周辺を見渡した。
「くそったれめ。塩崎でもいてくれたらな」
 ケイちゃんが嘆いた。くすぼり軍団の中では、多賀谷に次ぐ実力者である塩崎は、仲間の誠次という若者を連れて名古屋に遠征していた。賞金の出る大会に出場するためだ。しかし、それは表向きの理由で、本当の目的は、その大会に集まってくる各地の強豪と真剣を指すことだった。
 反町の視線が、秋介に向けられた。秋介は躊躇した。一万円ぐらいの金は持っていた。その金は、釜ヶ崎のアンコ(人足)仕事で稼いだ金だった。それで、溜まっていた宿代を払い、ようやく会所に顔を出すことができたのだ。この金を失えば、またカマ(釜ヶ崎)の日雇いに逆戻りだ。
「仕方ありませんね。相手がいないのなら、引き上げるしかないか」
 反町が立ち上がった。
(このまま東京に帰られては、大阪のくすぼりがなめられてしまう……)
 秋介が名乗り出ようとしたときだった。
「待ちなはれ!」
 遠藤だった。
「わたしがお相手しましょうか」
 思わぬ老人の申し出に、反町が怪訝そうな顔をした。
「遠藤金伍です。わたしでは役不足ですかな?」
 老人の名前を聞いた途端、反町の顔色が変わった。
「遠藤先生でございましたか。失礼しました。先生に教えていただけたら、大阪に来たかいがあったというものです」
 反町の態度が急に卑屈になった。プロ棋士になれなかったという負い目が、いまだに心に巣くっているのだろうか。
「先生……」
 秋介は、心配顔で老棋士の顔をうかがった。いくら元プロ棋士とはいえ、七十を越える老齢である。しかも遠藤は、引退前の数年は病気がちで、試合にはほとんど出場していないのだ。とてもカミソリ鋭司に対抗できるとは思えなかった。
 しかし遠藤は、そんな秋介の心配もどこ吹く風で、飄々(ひょうひょう)とした物腰で、反町の前の座を占めた。
「こりゃ、おもろなったでー」
 ケイちゃんが秋介の耳元でささやいた。
「あの先生、ああ見えても昔は賭け将棋が大好きでな。海千山千のくすぼり連中と、飲まず食わずで二日も三日も渡り合ったもんや。ごっつー、強かったでー。赤鬼金伍と呼ばれてな。勝負所になると、顔を真っ赤にして相手を睨みつけるんや」
 ケイちゃんの話に、秋介はあらためて遠藤の顔を見た。どこか教師を思わせる理知的で穏やかな顔をしている。とても赤鬼の顔は想像できなかった。
「懸賞は、五千円でよろしいのですね」
 反町の確認に、遠藤が鷹揚に頷いた。
「では、わたしが駒を振らせていただきます」
 先手後手を決める振り駒のために、反町が自陣の歩兵を取り上げようとしたときだった。
「待ってください」
 遠藤の声に、反町の手がとまった。遠藤はおもむろに、自陣の左にある香車を取り上げると、それを駒箱の中にしまった。
「プロがハンデなしで勝負することはできません」
 遠藤が、毅然と言い放った。反町の端正な顔がみるみる上気した。当然、平手(対等)で指すものだと思っていたのだ。たとえプロ棋士といえども、真剣では対等に戦える。それだけの実力と実績を、反町は備えている。それが、すでにプロを引退した七十過ぎの老人に、アマチュア扱いされたのだ。反町にとり、これほどの屈辱はなかった。
「では、お願いします」
 相変わらずのマイペースで、遠藤は角道の歩をつまみ上げると、乾いた駒音を響かせた。対する反町は、口を真一文字に結び、盤上を睨んでいた。そして、フーッと大きく息を吐き出すと、ようやく盤上に手を伸ばした。しかし、駒を取り上げる指は怒りでぶるぶる震えていた。
「先生、カッコ良すぎるんとちゃうか」
 ケイちゃんが、今度はみんなに聞こえるように言った。遠藤が駒を落としたことを、暗に批判しているのだ。自分からハンデを負うことはないではないか。まして、相手が悪すぎる……。
 秋介は、違う見方をしていた。このしょっぱなのやりとりで、精神的には遠藤の方が優位に立った。勝負は、そのときの気持が大きく作用する。将棋は盤上だけではないのである。
(おもろいことになったでー)
 ケイちゃんの口調を真似て、秋介が呟いた。ピンと背筋を伸ばして盤上を見据える遠藤の顔には、精気が満ちていた。

(大変なことになった)
 秋介は、萎(しぼ)んだように小さくなってしまった老人の背中を見ながら、深く嘆息した。
 遠藤が反町と互角にわたり合えたのは、初めの二番だけだった。いずれも終盤まで優劣不明のまま、いや、遠藤の方が少し指しやすいぐらいの局面だったのだが、最後は反町の腕力が老練な読みを上回った。
 三局目からは、序盤から反町の一方的なペースになった。勝つことにより、反町の心にわだかまっていたプロ棋士へのコンプレックスが払拭されたのだろう。存分に、カミソリの凄まじいまでの切れ味を見せつけた。
 すでに対戦は、六局目に入っていた。手合いは相変わらず遠藤の香落ちのままだ。最初にあんな大見栄をきってしまった以上、今さら手合いを直してくれとは頼めない。かといって、対戦をやめることもできないのだ。
 遠藤の懐(ふところ)には、いつも煙草銭くらいしか入っていない。秋介やくすぼり連中は、そのことをよく知っている。対戦をやめれば、反町に頭を下げるしかない。それは、遠藤のプライドが許さない。結局、遠藤は対戦を続けるしかない。勝って負け分を取り返すしかないのである。
 くすぼり軍団は、すでに姿を消していた。多賀谷を捜しに行ったのだ。こうなっては、多賀谷に頼るしかない。
「なるほどなるほど、さすがにプロの手筋は違うもんですね。しかし、こう指せばどうするのか……」
 反町は上機嫌で、独り言を呟きながら指し手を進めている。楽しそうな笑みを浮かべながら、まるでなぶり殺しにするように、相手の王将をじわじわ追いつめる。
 それでも遠藤の姿勢は崩れない。毅然とした態度で、指さばきにも乱れはない。しかし、視線に力がなかった。もはや、勝負師の目ではなかった。結局、この将棋も、反町の一方的な勝ちに終わった。
「どうです、そろそろ終わりに……」
 反町の言葉を拒絶するように、遠藤は無言で自分の王将を5一の位置に据えた。再戦の意思表示だ。さすがに反町も、うんざりしたような顔をした。
(多賀谷さんは何をしてるんだ)
 秋介が会所の入り口に視線をやった。
(まさか、あの連中、このまま先生を見殺しにするつもりじゃないだろうな)
 くすぼり軍団の結束は固い。しかし、遠藤は所詮、彼らの身内ではない。
「先生、少し休まれたらどうですか。その間、俺が代わりに指しますから」
 たまらず秋介が声をかけた。
「悪いが、あんたの相手をしている時間はないんだ。予約してある新幹線に、間に合わなくなるからね」
 反町の言葉に、秋介は唇を噛みしめた。おまえでは役不足だと言われたような気がした。強くなりたいと心底おもった。
 遠藤は黙々と駒を並べている。反町は自分の腕時計に視線をやったが、仕方がないといった表情でかぶりを振った。
「じゃあ、これが最後の一番ですよ」
 反町が渋々、駒を並べ始めた。
 反町が駒の配置を終えたときだった。痩身の五十年輩の男が、会所に姿を現した。後ろに床屋を従えている。
「多賀谷さん!」
 秋介が歓声を上げた。反町が振り返る。二人の視線がぶつかった。賭け将棋の世界では、ともに名前の売れた存在だった。
「えろう待たせたようですな」
 多賀谷が言った。
「やっと真打ちの登場ですか」
 反町が応えた。互いに値踏みするように、相手から視線をそらさない。そのとき、激しい駒音が響いた。遠藤だった。おまえの相手はこのわしだと叫んでいるような駒音だった。
「先生、お疲れのようですから、少し休まれたらどないですか? しばらくはこの多賀谷が、先生の代役を務めさせてもらいます」
 多賀谷が遠藤に、労るように声をかけた。遠藤が眉間にしわを寄せて、多賀谷の顔を睨んだ。
「これは、わしの勝負です」
 毅然と言い放った。
「お願いします」
 多賀谷が頭を下げた。遠藤は答えない。多賀谷がさらに頭を深く下げた。
「仕方ありませんな」
 遠藤がようやく、腰を上げた。歩き出そうとして、足元がよろけた。秋介があわてて、老人の体を支えた。疲労困憊(こんぱい)、心身ともに限界だったのだろう。多賀谷が遠藤に代わって、反町と対した。
「多賀谷さん、どこにいたんですか」
 隣りに立った床屋に、秋介が尋ねた。
「これや」
 札をめくる手付きをして見せた。秋介はすぐに了解した。賭場に行っていたのだ。おそらく、手ホンビキの盆が立っていたのだろう。手ホンビキとは、花札を使って互いの持ち札を当てる博打(ばくち)である。
「大将、もう二日も寝てへんみたいや」
 床屋が秋介の耳元でささやいた。秋介は、あらためて多賀谷の顔を見た。普段よりもさらに頬がこけて、目が赤く充血している。だが、怜悧で威圧的な眼光は、いささかの衰えも感じられない。
「では、やりますか」
 多賀谷が声をかけると、反町が怪訝な顔をした。
「このまま始めるつもりですか」
 反町の声が尖(とが)っている。盤上の駒は、遠藤が角筋の歩を突きだしたままになっている。そして、当然のことながら、左の香車が落ちたままになっている。
「わしは、遠藤先生の代わりをすると言うたはずです。このままやらしてもらいましょうか」
 多賀谷の宣言に、驚いたのは反町だけではなかった。
「大将、何いうてまんねん。カッコつけてる場合やおまへんでー」
 床屋が抗議した。
「じゃかやしいわい! 外野は黙っとらんかい」
 多賀谷が怒鳴った。こんなに苛立った多賀谷を見るのは珍しい。
(賭場で負けたんだな)
 秋介は思った。
「やれやれ、大阪の人はガメツイと聞いてきたが、どうやら江戸っ子と一緒で、とんだ見栄っぱりが多いようだ」
 反町は呆れ顔でそう言うと、軽い手付きで飛車先の歩を突いた。すぐに後悔することになる、口元に浮かんだ冷笑が、そう呟いていた。

(この形は……)
 秋介は、多賀谷の陣形に見覚えがあった。多賀谷は三間に飛車を振った。そして、3三の角の上に銀を配したのだ。
 昭和31年の第五期王将戦の第四局、升田(ますだ)幸三八段と大山康晴(やすはる)名人との対戦だった。当時の王将戦の規定により、その対局では、初戦から三連勝した升田が香車を落とすことになった。棋界の最高位である名人が、下手として駒落ちを指すという前代未聞の珍事が出現したのだ。
 そのときの対局で升田が用いた戦法が、多賀谷と同じ三間飛車・3四銀形なのである。日頃から升田は、香落ちはよほどの技量の差がない限り、下手必勝だと広言していた。ただし、と升田は付け加える。3四に銀を配して相手の早仕掛けを防げば、上手にも勝機が生まれてくる。
 大山はその升田の話を知っていて、わざと3四銀形に組まさせたのだ。相手に理想型を許してそれを粉砕する。名人としての大山の意地だった。だが、やはり3四銀形を許したことが響いて、この因縁の同門対決は、兄弟子の升田に凱歌が上がった。
 かつては奨励会に所属してプロ棋士を目指していた反町は、駒落ち将棋の定跡を徹底的にたたき込まれているだろう。当然、升田と大山の対局も研究しているはずだった。その証拠に、反町は遠藤に対して、一度として3四銀形を許していない。
 これは反町の意地なのか、それとも余裕なのか。くすぼり風情が本格的な将棋が指せるはずはないとの読みなのか。
 あの王将戦での大山は、あえて香車が欠けている端を攻めずに、平手のように戦った。しかし、反町は躊躇なく、1筋を急襲した。時々チラリと腕時計に視線をやった。新幹線の時刻に間に合うように、相手陣を一気に粉砕するつもりなのだ。
 多賀谷は正確に応接する。反町の顔に、次第に焦りの色が浮かんできた。多賀谷がこれほどまでに香落ちの定跡に精通しているとは、予想してしなかった……。
 局面は、反町の無理攻めをとがめた多賀谷が優位に立って、そのまま押し切る形で決着がついた。反町はすぐに駒を並べ始めた。もはや帰りの新幹線のことは、頭から消えてしまったようだ。
 反町は、二局目も多賀谷に3三銀形を許した。ただし、今度は無理な急戦には出ないで、腰掛け銀の持久戦を選んだ。互いに玄人好みの手筋を連発して、優劣不明の終盤戦に突入した。指した方が良く見える白熱した好勝負だ。いつの間にか、他のくすぼり連中も帰って来ていた。あのケイちゃんさえも無言で、多賀谷の戦況を見守っている。
(タガゲンのやつ、こんな将棋も指せたのか……)
 秋介は驚いていた。定跡の手順を踏んだ本格的な将棋でも、多賀谷は自在に指しこなしている。多賀谷将棋の懐の広さを、あらためて思い知らされた。
「よし!」
 しばらく盤上を見つめていた反町が、力強く頷いた。そして、敵陣に入り込んだ龍をバッサリ切って、王手。小気味いい駒音が、反町の自信を表している。くすぼりたちの表情が強ばった。終盤でのカミソリの切れ味を、目の前で何度も見せつけられたのだ。
 多賀谷はノータイムで、王将を9三に逃げた。反町が訝(いぶか)しげにその王将を睨んだ。龍を取る一手だと読んでいたのだ。それでも反町は、悠然と龍で銀を取り込んだ。これで多賀谷の王将は、受けなしの「詰めろ」がかかった。
 くすぼりたちの顔に落胆が浮かんだ。一見して、反町の王将は詰みそうにもない。
(タガゲンでも駄目なのか)
 秋介は嘆息した。腹立たしい思いがこみ上げてきた。
(格好つけて駒なんか落とすからやられるんだ。平手だったら、あんなキザな野郎にタガゲンが負けるはずがないんだ)
 多賀谷ひとりは平然とした顔で、次の手を指した。ただし、角を成り込んで玉頭の歩を取るという強手である。反町は嘲笑を浮かべながら、王将自らでその馬を払った。成算のない玉砕戦法だと楽観している。
 多賀谷は、淡々とした手付きで王手を連続させる。余裕で応接していた反町の顔が、次第に真剣になっていった。まるで蜘蛛の糸のような頼りない攻め筋を手繰(たぐ)り寄せて、多賀谷の王手は続いている。徐々に反町の王将が上部に引きずり出されていく。
「そんな馬鹿な……」
 反町がうめくように呟いた。反町が考える時間が長くなった。秋介たちの目にも、反町の王将に絡みつく多賀谷の攻め筋が見えてきた。
「いけるで、うん、ピッタシや」
 ケイちゃんが歓声を漏らした。反町の王将の詰みが明らかになった。それでも反町は最後まで指した。自分の負けが信じられないのだ。
 多賀谷の角切りの強襲から二十九手、鮮やかな収束だった。多賀谷の駒台には、歩兵ひとつなかった。最終手は8四歩突き、9三に上がっていた多賀谷の王将が決め手になった。そこに王将がいなければ、最後の手は成立しなかった。
 投了後も未練たらしく盤上を見つめている反町をせかすように、多賀谷はそそくさと駒を並べ始めた。まだ二番、返しただけなのだ。
 さすがに二つ続けてやられた反町は、今度は3四銀形を許さなかった。早々に3筋の歩を突いて、予防線をはった。しかし、どこか指し手に迷いがあった。前の一番で、絶対の自信を持っていた終盤戦で読み負けたのが尾を引いている。
 多賀谷は一転して、いつもの奔放な手将棋に持ち込んだ。手筋を無視した無手勝流の泥くさい将棋だ。思わぬ局面で飛び出してくる鬼手に、反町はいいように翻弄された。
「さすが、つええもんだべ」
 東北訛りのダミ声が聞こえた。秋介が振り向くと、いつの間にかあの子連れの男が、多賀谷たちの将棋に熱心に見入っている。
 ケイちゃんが、あっちに行けとばかりに、怖い顔で睨みつけた。しかし、男は子供のような邪気のない笑顔で、ケイちゃんに会釈した。

 盤上に視線を落とす反町の頬は、げっそりと落ちくぼんでいた。目は真っ赤に充血して、唇は乾いてパサパサに乾いている。上着を脱いで、白いワイシャツの袖を腕まくりしている。乱れた襟元から覗く首筋に、脂汗が浮かんでいた。対する多賀谷もさすがに疲労の色は目立つが、猛禽のような眼光は少しも萎えていない。
 柱時計の音が響いて、夜中の三時を告げた。閉店時間はとっくに過ぎている。以前に一歩クラブで働いていた秋介が、席主に頼んで会所の鍵を預かっていた。
 秋介やくすぼり軍団が、相変わらず二人の周囲を取り囲んでいる。その中に、あの子連れの男の姿があった。閉店時間がきても帰ろうとしないのだ。熱心に対局を見守っている。
 座敷の向こうでは、その男の子供が父親の背広をかけてもらって、ぐっすりと寝入っている。遠藤もさすがに疲れが出たのか、壁に寄りかかって、うつらうつらと船を漕いでいる。
 反町は懸命に、多賀谷の王将を睨んでいた。詰ますしかない。自玉には、受けなしの必至がかかっている。
 多賀谷の顔に苦悶が浮かんだ。しかし、すぐに血の気が引いて、能面のような顔に変わった。反町は駒台の駒を乱暴につかむと、ばらばらと盤上に落とした。
 これで、多賀谷の十連勝が決まった。カミソリという異名を持つ強豪相手に、香車を引いて十番、棒に勝ったのである。だが、多賀谷は即座に王将を5一の位置に据えると、駒を並べにかかった。
「待ってくれ。もうたくさんだ。これ以上は指せない」
 反町が音を上げた。
「まだ夜中です。朝までやるしかないやおまへんか」
 反町の金をさらに毟りにかかった。
「勘弁してください。俺はもう駄目だ」
 泣き出しそうな顔でそう言うと、財布から一万円札を二枚ぬき取り、盤上に投げ出した。
「まだ、電車も走ってないんやで」
 多賀谷が粘った。反町の顔が恐怖で歪んだ。そして、上着をつかむと、逃げ出すように会所の外に飛び出して行った。
「大阪のくすぼりを、なめたらあかんでー」
 追い打ちをかけるように、床屋が罵声を浴びせた。その声で、遠藤が目を醒ました。
「先生、おかげさんで、稼がせてもらいました。これは、先生の取り分です」
 老人の前に、多賀谷が恭(うやうや)しく一万円札を差し出した。遠藤は一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、うむ、と小さく頷くと、当然のような顔でその金を受け取った。
「兄ちゃん、少し寝させてもらうよ」
 秋介にひと声かけて、多賀谷は座敷の端にごろりと横になった。たちまち鼾(いびき)が聞こえてきた。

 秋介は、一歩クラブに向かっていた。あの多賀谷と反町の壮絶な戦いから、一週間以上が経過していた。その間、秋介は一歩クラブに顔を出していない。多賀谷を避けて、他の会所で稼いでいた。多賀谷の底知れぬ力に圧倒されたのだ。
(今の俺じゃ、とても太刀打ちできない) 
 しかし、現金なもので、しばらくすると以前にも増して、多賀谷に対する闘争心が全身に満ちてきた。
(タガゲンを倒すのはこの俺だ。俺しかいない)
 秋介は、その想いをさらに強くした。
(うん? あの子は……)
 ジャンジャン横町のアーケードの下を歩いているときだった。背中を見せてぼんやりと佇(たたず)んでいる子供がいた。そのイガグリ頭に見覚えがあった。
「よう、何してるんだ?」
 秋介が声をかけると、子供が顔を上げた。口を真一文字に結んで、秋介の顔を睨んだ。一歩クラブに来ていた東北弁の男の子供である。確か、サトシと呼ばれていた。
(愛想のないガキだな)
 秋介は、声をかけたことを後悔した。
「一緒に昼飯でもどうだ?」
 バツが悪くなって、気のない誘いをした。しかし、サトシは秋介の顔を睨んだまま何もしゃべらない。
「悪かったな、邪魔をして」
 秋介は苦笑を浮かべて、子供のそばを離れた。
 秋介が、串カツ屋に入って、ジョッキのビールを飲んでいるときだった。
「おい、ボーズ、なんか用か?」
 カウンターの中で調理していた店主が、入り口に向かって声をかけた。秋介が振り向くと、ガラス戸の桟(さん)に隠れるようにして、サトシが顔を覗かせていた。
(そういうことか)
 秋介は、やれやれとばかりにサトシを手招きした。サトシはしばらくためらっていたが、おずおずと店の中に入って来た。カウンターの椅子は子供には高すぎるので、秋介がサトシの体を持ち上げて、椅子に腰掛けさせた。
「なんだ、兄さんの子供だったのか。しかし、その若さでこんな子供がおるとはねえ」
 店主の誤解を、秋介は微笑で受け流した。子供の頃から、言葉で説明するのが苦手だった。そんな面倒なことをするぐらいなら、誤解されたままでいい……。
「串カツ食べるか?」
 秋介が声をかけると、サトシがコクンと頷いた。相変わらず、口を真一文字に結んだままだ。秋介は、串カツを一本とり上げると、ソースの容器にちゃぽんと浸けて、サトシの前に差し出した。串カツを受け取った子供は、まるで周囲を警戒するように、秋介に背中を向けてガツガツと食べ始めた。
(まるで、野良犬の子供だな)
 ビールをひと口飲んで、ステンレスのトレイに入ったキャベツを囓った。このキャベツはサービスで、いくら食べても無料なのだ。
(あいつ、今頃、どうしてるかな)
 家業の八百屋を投げ出して、スナックのホステスと出奔した父親のことを思った。父親に連れられて、そのホステスのアパートにも何度か行ったことがある。きれいな女性だった。秋介にもやさしくしてくれた。彼女のそばに寄ると、とてもいい匂いがいた。
『いいか、秋介、このことは誰にもしゃべるんじゃないぞ』
 父親からいつも言われていた。秋介はいつの間にか、ひどく無口な子供になっていた。
 ふと気が付くと、サトシが空になった串を握って、秋介の顔をジッと見ていた。口元がソースで汚れている。
「キャベツ、食べるか?」
 サトシが悲しそうな顔をした。
「じゃ、串カツ食べるか?」
 喜びを一気に爆(は)ぜるように、サトシが破顔した。秋介も笑った。サトシの前歯が二本、欠けていた。秋介の視線に気付いたサトシが、しまったとばかりに手のひらで口を覆った。

「あのおっさん、ここんところ毎日、来とるやないけ。まったく、せこい商売しくさってからに」
 床屋が腹立たしそうに言った。秋介が後ろを振り返ると、その男と視線がぶつかった。サトシの父親である。男が、人なつっこい笑顔で会釈した。つられるように、秋介も会釈を返していた。
 床屋の話によると、男は津島と名乗った。津島は会所の開く朝の十時過ぎに、子供を連れてやって来る。そして、お昼時になると、子供に五十円玉を握らせて会所の外に送り出す。津島自身は一歩も外には出ずに、ただひたすら将棋を指すのである。
 津島は決まって、二百円の懸賞を持ちかける。大した金額ではないので、大概の相手は乗ってくる。その二百円を、津島は丹念に拾い集めるのだ。棋力はせいぜい普通の四段クラスだが、とにかくしぶとい将棋なのだという。敗勢に陥っても、とにかく粘る。相手がうんざりするまで粘りまくり、最後には逆転してしまう。床屋が見ている限りでは、津島は一度も負けたことがないらしい。
 一局二百円の賭け金でも、一日十番勝ち越せば二千円、頑張って十五番勝ち越せば三千円だ。大阪の将棋は早指しが多いので、一日十五番は無理な数字ではなかった。カマ(釜ヶ崎)のドヤなら、三百円もあれば個室で一泊できる。三千円は少ない稼ぎではなかった。
 しかし、津島は、くすぼりたちの誘いは頑なに拒んだ。あくまで一般の客を相手に、二百円の賭け将棋に精を出すのである。
 多賀谷の将棋が始まった。相手は不動産屋の林だった。手合いはいつも通りの飛香落ちだ。秋介は、自分が林と対戦しているつもりになって、多賀谷の次の手を読んだ。指し手が違うと、多賀谷の読み筋を懸命に考えた。
 秋介は、しばらくは多賀谷に貼りついて、“見(けん)”に徹するつもりだった。多賀谷の将棋の感覚を、こうして頭の中に刻み込むのだ。
 いつの間にか、観戦者の中に津島の姿があった。真剣な表情で盤面に見入っている。
「あいつ、ああして大将の将棋だけは、熱心に観てるんやで」
 秋介の耳元で、床屋がささやいた。
「うん、あきまへんな。これまでや」
 禿げ上がった額をぺんぺんと手のひらでたたきながら、林が投了の意思表示をした。せっかちな性格なのか、ひどい早指しで、二番で四十分足らずの対戦だった。
「もう一番、どうです?」
 多賀谷の誘いに、林はかぶりを振った。ワニ革の財布から六枚の千円札を取り出すと、多賀谷に手渡した。
「やっぱり、多賀谷さんは読みの深さが違う」
 感心したように言って、席を立った。
「だんさん、お口直しに、今度はわてとどうでっか」
 ケイちゃんがすかさず声をかけた。
「あんた、熱心やな」
 多賀谷はそう言って、津島の顔を見た。多賀谷もそれなりに、津島のことが気になっていたのだろう。
「はい、勉強させてもろうてます」
「じゃあ、実地に一番、どないです?」
「へば、お願いしようかな」
 津島の返事に驚いたのは、周りにいたくすぼりたちだった。津島は今まで、床屋やケイちゃんがいくら誘っても逃げてばかりいた。そんな男が、多賀谷の申し出をあっさりと受けたのだ。津島は、そうした周囲の好奇の視線には無頓着で、平然と多賀谷の前に坐った。
「角落ちでたのむで」
 これにはさすがの多賀谷も驚いた。唖然とした表情で、津島の顔を見た。
「本気かいな」
 床屋が呟いた。どうひいき目に見ても、津島と多賀谷では飛車落ち、いや飛香落ちがいいところだろうか。
「懸賞は?」
 多賀谷の問いかけに、津島はズボンのベルトに手をかけた。ベルトを緩めて灰色のポロシャツをたくし上げると、白いサラシが現れた。その胴巻きの中に手を突っ込んで、ビニール袋に入ったものを引っぱり出した。
「七万円、あるども」
 千円札を束ねたものを七つ、ビニール袋から取り出すと、大事そうに盤の上に置いた。ケイちゃんがヒューッと口笛を吹いた。
 多賀谷が津島の顔を睨んだ。えぐるような猛禽の目だ。しかし、津島は臆することなく、多賀谷の視線を平然と受け止めた。多賀谷の口元がほころんだ。
「林さん、乗り手(スポンサー)になってもらえまへんか」
 不動産屋に声をかけた。
「よっしゃ、わかった。わいの取り分は三万でええよ」
 懐から財布を取り出すと、真新しい一万円札を七枚取り出して多賀谷に手渡した。多賀谷は、盤上の千円札を取り上げて、一万円札と一緒に束ねると、駒箱の中に無造作に差し込んだ。そして、その駒箱を盤の傍(かたわ)らに置いた。まるで、札束のトロフィーのようだった。
(この自信は、どこからきてるんだ?)
 津島の顔を見ながら、秋介は心の中で問いかけた。津島は、多賀谷と反町の勝負を観戦していた。多賀谷の鬼神のような強さを知っているはずなのだ。
(ひょっとして、油断させるために、今まで弱いやつの相手をしていた……)
 秋介は大きくかぶりを振った。
(そんな小細工をする必要がどこにある? 油断させるのが目的なら、もっと厳しい手合いを要求したはずだ)
 津島は、自分から角落ちを要求したのである。多賀谷だったら、飛車落ちでも喜んで津島の挑戦を受けただろう。
(とにかく、この将棋ですべてがわかる)
 秋介は腕組みをして、盤上に視線を据えた。

 多賀谷が飛先の歩を突いて、勝負が始まった。津島は真一文字に口を結んで、気持を整えるように盤上を眺めていた。そして、まるで慈しむような手付きで角道の歩をつまみ上げると、ひとつ上の升目に静かに置いた。多賀谷はノータイムで、さらに飛先の歩を伸ばす。津島がまた小考する。迷っている様子はなく、自分のペースを頑なに守ろうとしているようだった。
 津島は慎重に指し手を進めて、がっちりと矢倉(やぐら)囲いに組み上げた。そして、一目散に王将を入城させた。多賀谷は居玉のままで、早々に金銀を盛り上げる。津島の棋風を受け将棋と看破したのか、攻めの態勢を急いだのだ。
 多賀谷が飛車を4筋に転じた。手損や形にとらわれない、くすぼりらしい手だ。津島はまた小考して、自分の飛車も4筋に回った。徹底的に受ける作戦なのだろう。
 指し手を進めるうちに、多賀谷の顔に苛立ちが浮かんだ。多賀谷が表情を変えるのは珍しい。やりにくいと感じているようだ。津島は、当然と思える一手にも慎重に時間を遣う。多賀谷は早見えの将棋で、指し手にも迷いはない。どうにも、自分のリズムがつかめないといった様子だった。
 津島はさらに9筋の香車を上げると、その下に王将をもぐり込ませた。矢倉から穴熊(あなぐま)に組み替えたのだ。これで、津島の守備陣形は鉄壁になった。
 秋介の目にも、津島の作戦勝ちが明らかになってきた。守りに徹する津島は、次の指し手に困ることはない。それに反して多賀谷は、攻めにつながる手に窮している。かといって、大駒を落としている多賀谷が守りに入ればジリ貧になる。
「上手殺しだな」
 秋介のそばで観戦していた遠藤が、そう呟いた。
「上手殺し?」
 オウム返しに、秋介が尋ねた。
「あの男は、角落ちの専門家だ。多賀谷さんも、悪い相手に狙われたな」
 老棋士の言葉に、秋介の中でわだかまっていた疑問が氷解した。
 津島は角落ちのスペシャリストなのだ。角落ちを徹底的に研究している。平手戦では平凡な男が、角落ち将棋では強豪棋士に変身する。その上、津島には、多賀谷の将棋をじっくりと観察する時間があった。多賀谷がどちらかというと受けの棋風の相手に苦戦していることや、角使いの名手であることを、ちゃんと見抜いていたのだ。
 津島の自信は、根拠のないものではなかった。すべてのデータを冷静に計算した上で、勝てるという結論を出したに違いない。ただし、何番もやって勝ち越せる相手だとは思っていない。番数が増えれば、多賀谷の腕力と経験が活きてくる。だからこそ津島は、一発勝負に全財産を賭けたのだ。
 盤上は中盤を迎えて、いよいよ津島が重い腰を上げて攻勢に転じた。切れ味の鈍い重い攻めだ。しかし、その分、着実ではある。王将の囲いに差がある現状では、多賀谷にとっては最も嫌味な攻め方だった。
(タガゲンが負ける……)
 駒箱に立てた賭け金を見て、秋介はそう思った。そして、サトシの幼い顔を思い浮かべた。この親子は、賭け将棋だけで食いつないでいるのではないか。勝負に負ければ、親子そろって路頭に迷うことになる。そうした津島の背中の重みが、使い古された千円札に表れている。千円札七十枚と一万円札七枚、金額は同じでも、その重さはまるで違っている。

10

 局面は、飛車を再び2筋に転じた津島が、飛車先を破ることに成功した。成り込んだ龍が、4三の金に当たっている。これで、決定的に津島の優位が確定した。
 多賀谷が珍しく長考した。金を引く一手に思われたが、しきりと津島の陣地を睨んでいる。そして、多賀谷が指した手が5七歩、金取りを放置した剛胆な手だった。
 今度は津島が長考した。明らかに迷っている。金のタダ取りは魅力だが、その代償に相手にと金をつくられてしまう。受けるべきか。そうなると、5七の歩が効かしになっておもしろくない。結局、津島は龍で金を取った。
(俺でもそう指すさ)
 秋介は内心、頷いた。
「イチチチチ……」
 床屋が顔をしかめた。
 多賀谷が悠然とと金をつくる。津島がまた長考に沈んだ。そのと金をジッと眺めている。そして、ためらった手付きで指した手が4七龍、と金を捕獲にかかったのだ。そのとき、多賀谷の口元に冷笑が浮かんだ。
 多賀谷は当然のように5七歩打ちで、と金を守った。津島が再び龍を敵陣に侵入させる。それからの攻防は熾烈だった。津島が懸命に攻める。多賀谷が徹底して受けに回り、粘りに粘る。
 攻勢をかけながらも、津島の視線がときどき多賀谷のと金に向けられた。気になって仕方がないのだ。絶対的な優勢だけに妙な欲が出る。一手違いでもとにかく勝てばいいのだが、より完全に、より安全に勝ちたいという気持が強くなってくる。
 津島がと金を見る回数が多くなってきた。執拗な多賀谷の受けに攻め疲れたのか、津島の指し手に乱れが出てきた。多賀谷の駒台には、豊富な持ち駒がそろっている。
(まぎれてしまったな)
 秋介はあらためて、多賀谷の底力に恐怖した。
 勝負は混沌としてきた。多賀谷が攻めれば、今度は津島が受けに回る。津島の受けも、多賀谷に劣らず粘り強い。しかし、攻めの腕力が違う。多賀谷はと金を足がかりに、細かい攻めをつないでいく。だが、津島も鉄壁の穴熊玉を頼りに、反撃する。
「おっとう……」
 子供の声が聞こえた。秋介が振り返ると、サトシが津島のそばに立っていた。柱時計の針は、すでに夕方の六時を回っている。サトシはいつも通りに夕方まで外で時間を潰して、会所に戻って来たのだ。しかし、懸命に手を探している津島は、息子の声にも気付かない。
 サトシが秋介に気付いた。秋介が小さく頷くと、口をつぐんだまま、精いっぱいの笑顔を見せた。
 盤上は最後の勝負所だった。多賀谷の王将を睨む津島の顔が真っ赤に紅潮している。津島は唐突に、うん、と力強く頷いた。読み切ったという自信が、たちまち顔に満ちてくる。
(津島さん、勝ったな)
 秋介も頷いた。難解だが、十五手の詰みだった。いつの間にか心情的に、津島に、いや、津島親子に肩入れしていた。
 津島の手が盤上の龍に伸びた。まず、龍で銀をはがすのが詰め筋だった。しかし、津島の手が途中で止まった。手を引っ込めて、もう一度じっくり考える。必至がかかっている自分の王将を見た。そして、駒箱の賭け金に視線をやった。
 いわゆる“震え”である。ひょっとしたら読み間違えているのではないか。もし詰み損ねれば、それまでである。攻めに自信がないだけに、自分の読みを信じることができない……。
 津島はさらに長考を重ねて、結局は自玉に迫っている成り桂を金で払った。これで自玉の必至が消えた。安全な勝ち方を選んだのだ。
(まずい!)
 秋介が心の中で叫んだ。間髪を入れず、多賀谷が玉頭を歩でたたいた。取る一手で、津島が王将でその歩を払う。すかさず多賀谷が歩頭に桂馬を打ち付けての王手。一瞬、唖然とした津島の顔から、みるみる血の気が引いた。
「よっしゃ!」
 ケイちゃんが歓声を上げた。これも取る一手なのだが、津島は固まったように動かない。取れば、痛恨の王手龍取りが待っている。十分近く、津島はその桂馬を睨んでいた。やがて、歯を食いしばり、その桂馬を取り込んだ。多賀谷の手が、駒台の角をつかんだ。
 それからさらに十数手、津島は最後まで粘った。しかし、勝負は王手龍取りで、いや、津島が即詰みのチャンスを見送った時点でついていた。
「おっとう!」
 父親の異変に不安を覚えたサトシが、津島の体にむしゃぶりついた。鼻水をすすり上げながら泣きじゃくる。
 多賀谷は、険しい表情で駒箱から賭け金をつかみ取ると、十万円を取り分けて林に手渡した。残りの千円札は、無造作に背広のポケットにつっ込んだ。
「飯でも食いにいこか」
 仲間に声をかけて、席を立った。多賀谷も複雑な気持なのだろう。勝っても喜べない勝負がある。多賀谷たちが立ち去ったあとも、秋介は会所に残っていた。
「サトシ、もういいから泣ぐな。おとうは大丈夫だ」
 津島がそう言って、子供のイガグリ頭をやさしく撫でた。サトシがようやく泣きやんだ。
「おとう、おら、腹さへった」
 サトシが訴えた。時刻はすでに、夜の七時を過ぎている。
「そっか……、サトシ、もうちょこっと待ってけれ」
 津島が立ち上がって、会所の中を見渡した。相手のいない客を見つけては、そばに行って対戦を持ちかける。しかし、角落ちとはいえ多賀谷と互角にわたり合った男なのである。みんな尻込みして、津島との対戦を拒んだ。
「俺でよかったら、相手になりますよ」
 秋介の顔を見て、サトシが前歯のない歯を見せて笑った。


(俺は……、何をやってるんだ)
 秋介は悄然と、ジャンジャン横町の通りを歩いていた。勝つつもりのない将棋を指したのは初めてだった。
「サトシ、おまえの父ちゃんは強いよ」
 言い訳するように呟いた。いつの間にか、ねじり合いの真剣勝負になっていた。
 アーケードを抜けると、小糠雨が体にまとわりついてくる。ズボンのポケットの中で、百円硬貨がぶつかって、哀しい音をたてた。


Copyright(c): Fuyuhiko Aki 著作:亜木 冬彦

◆「子連れ狼」の感想

*亜木冬彦&赤川仁洋の作品集が 文華別館 に収録されています。
*榊秋介シリーズ @「盲目の勝負師」、B「観音菩薩」もお楽しみください。


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